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古诘将棋2 诘将棋的兴盛
阅读前须知:知识来源:诘将棋博物馆。
标注“*”的词汇是我们未准确翻译的词汇。
江户初期诞生的诘将棋,因为诘将棋献上的惯例,以将棋棋士的作品为中心不断进化。
初创时期的作品缺乏妙手,并且会有驹余。但到了下一个时代,十分巧妙的作品诞生,使得“驹余”的作品消失。初创时期的作品,让人十分烦恼而索然乏味的作品不在少数,但随着时代的发展,这样的作品也渐渐地越来越少了,使得诘将棋变成了一种有趣的“解谜谜题”。在实战中绝对看不到的各类奇葩妙手受到了人们的重视,从这以后,诞生了许多具有好手妙手、难以解开的佳作。
第一代伊藤宗看(三世名人,1618-1694)可以说是诘将棋近代化之父。他的作品《象戯図式》(俗称《将棋駒競》日本庆安2年,1649年刊)上没有“驹余”的作品,由此确立了直至今天也通用的诘将棋规则。(不过,“玉方最长”的规则并不严格,虽说这在古图式整体上就有所规定,但在实际上也是近代才开始有这个规则的。)
初代伊藤宗看的作品,其特征是内容深刻、变化广泛、难以琢磨。诘将棋长度平均为22手,比三代宗桂的25手相比反而短了些,新的特点可概括为:删除无意义的手顺、浓缩成具有妙手的手数小的诘将棋、在变化手顺中也设置妙手。“难解性”是诘将棋评价的重要因素,而他的这些作品在这一点上也有很大的进步。《駒競》的作品与以往的作品相比,更为巧妙、有趣、耐人寻味。
第四世名人五代大桥宗桂(初代宗看之子。1636-1713)的《象戯図式》(俗称《象戯手鑑》、日本宽文9年刊)也和《駒競》一样是一部高质量的作品。备受瞩目的是,其中的部分作品开始被认可为创作游戏的要素。例如,「双方飛車不成」「双方角不成」「龍追い廻し」「桂追い作品」「持駒一揃い作品」等。由此,具有观赏性的诘将棋作品诞生了。
鉴赏历代将棋家的献上图案,就可以感受到他们为了制作出让人刮目相看的佳作,采用全新方法,以超越前人已有的成就的艰辛。而这个新办法,就是“游戏作品的诞生”。
第六世名人三代大桥宗与(1648-1728)是二代伊藤宗印之后成为名人的人。他的献上图解《象戯作物》(俗称《将棋養真図式》,日本享保元年(1716)年刊)的作品风格可与初代宗看和五代宗桂相提并论,但是从技术层面上看却没有新的进步。也许是因为让不负责任的门徒代作的缘故,宗与的创作能力很低。他经常改编(剽窃)以前的作品,或是作出不完全的作品,这成为了“诘将棋献上”史上的一大污点。
从初代宗看到三代宗与的作品,都可以说是共通的,棋型从实战型开始一点一点地崩溃。渐渐地,诘将棋使用的棋子数量多了,配置广了,变化也复杂了。虽然不像现代作品那样精巧玲珑,但也可以看出当时的高段将棋棋士呕心沥血创作的痕迹。
以下为知识来源
詰将棋の興隆(江戸前期)
江戸初期に誕生した詰将棋は詰将棋献上の慣例のために、将棋家元の作品を中心に進化を続けた。
草創期の作品が妙手に乏しかったり、手駒が余ったりして味気なかったのに比べ、次の時代になると巧妙な狙いを持った作品が誕生し、「手余り」作品は姿を消した。草創期の作品は、ただ頭を悩ませるだけで面白味の乏しいものが少くなかったが、時代とともにこういった作品は少なくなり、詰将棋は興味深い「謎解きパズル」に成長した。実戦では絶対に見られぬ奇抜な妙手が珍重され、巧妙な狙いを持つ難解作が誕生した。
詰将棋近代化の父と言えるのは初代伊藤宗看(三世名人。1618―1694)である。彼の作品『象戯図式』(俗称『将棋駒競』慶安2年。1649年刊)には「手余り」作品がなくなり、今日でも通用する詰将棋のスタイルが確立した。(ただし、「玉方最長」のルールは厳密でなかったが、これは古図式全般に言えることで、これが喧しく言われるようになったのはごく最近のことである。)
初代宗看の作品は、内容に深味があり、変化が幅広く、難解なのが特徴である。詰手数は平均22手で、三代宗桂の25手に比べてかえって短くなっているが、無意味な手順が切り詰められ、短い手順の中に妙手が濃縮され、変化手順の中にも妙手があるのが新しい特徴である。「難解性」は詰将棋評価の重要な要素であるが、この点でも大きな進歩が認められる。『駒競』の作品は従来の作品に比べて巧妙であり、難解である。
四世名人五代大橋宗桂(初代宗看の子。1636―1713)の『象戯図式』(俗称『象戯手鑑』、寛文9年刊)も『駒競』と同様に重厚な作品であるが、一部の作品に創作遊戯的要素が認められ始めたのが注目される。例えば「双方飛車不成」「双方角不成」「龍追い廻し」「桂追い作品」「持駒一揃い作品」など、鑑賞向きの作品が誕生している。
歴代家元の献上図式を鑑賞すると、彼等が面目にかけて秀れた作品を作ろう、先覚の業績を凌ごうと努力した跡がうかがえて興味深い。この新工夫の現れが「遊戯的作品の誕生」だったのである。
六世名人三代大橋宗与(1648―1728)は、次に述べる二代伊藤宗印の後で名人になった人であるが、作風から便宜上ここで述べておく。彼の献上図式『象戯作物』(俗称『将棋養真図式』、享保元年。1716年刊)も、作風は初代宗看や五代宗桂と軌を一にするものであるが、技法上新しい進歩は見られない。宗与は創作力が低く、無責任な門人にでも代作させたためか、従来作品の改作(盗作)や不完全作が多く見られ、献上図式史上の一大汚点となっている。
初代宗看から三代宗与までの作品について共通して言えるのは、棋型が実戦型から少しずつ崩れ始めており、詰手数の割合に使用駒数が多く、配置が広がっており、変化も苦心して仕上げた跡が見られることである。現代作品のようにスマートではないが、時の高段者が心血を注いで創作した跡がうかがわれる。