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古诘将棋3 黄金期的前夕
阅读前须知:知识来源:诘将棋博物馆。
标注“*”的词汇是我们未准确翻译的词汇。
随着时代的发展而成长起来的家元制棋士和诘将棋,因五世名人二代伊藤宗印(出生年份不明-1723)的登场而展开飞跃性的发展。
到五代宗桂为止的作品,即使有一部分游戏性的作品,大部分都是稳重的实战型作品,而宗印的诘象棋则是与实战型毫无关系的“创作型”作品。他的作品共有二百道题,元禄十三年(1700年)奉上的《象戏图式》(俗称《象棋勇略》),是一种将全题、玉配置在中段(4-8段)的创作型诘将棋,其装盘顺序也极尽了舍驹之精华的轻松之作。完全没有自阵玉(1-3段玉)的是古今的异类作品集。因为作者有如此多的本领,所以也可以想象出自己阵营玉的作品集是不是另有。另一部作品集《象棋精妙》,正如《不成百番》的别名一样,每部作品都是有不成线索的作品集,卷末的两个题目是以玉方的角不成和飞不成的伏笔而终成的“逃图式”。另外,这部《象棋精妙》在作者生存期间并未出版,而是以书信的形式流传下来,直到幕末安政五年(1858年)才首次出版。
宗印的两部作品集,是从当时的诘将棋理念飞跃而来的奇葩,可以看到宗印非凡的技术和棋感。话说回来,像这样脱离传统,在当时甚至可以说是奇巧的作风,让宗印走在上面的动机是什么呢?
如前所述,历代将棋家元的献上作品,一方面也为是了超越先辈的业迹,不断地进行着改良。话说回来,极为厚重的五代宗桂的《大象戏手鉴》的存在,对于下一代的宗印来说是相当大的威胁。与五代宗桂站在同一次元上制作《大象戏手鉴》的作品几乎是不可能的。这种苦恼和判断,是不是迫使宗印向实战型的诀别、向奇巧的新作风转变呢。但是,考虑到向这种自由的新作风转变是产生下一代杰作《将棋无双》和《将棋图巧》的契机,不得不说这件事确实有很大的意义。
顺便说一下,二代宗印的作品实际上有可能是代写的,我想先提一下。那就是,《将棋勇略》不是宗印自己创作的,而是《象戏秘曲集》的作者添田宗太夫七段代写的。其根据是,《将棋勇略》被献上6年后,宝永3年(1706年)出版的洗濯周咏篇《象戏洗涤作物集》中,《将棋勇略》的两部作品作为添田宗太夫作被刊登。从时代、作风和前后的情况来看,添田的替代作品并不是不能想象的。如果添田是《勇略》真正的作者,那么将棋的历史就会在重要的地方发生一些变化,但两者都是重要的人物,所以要言及。
以宗印为顶点的家元棋士的诘将棋如此惊人地发展起来,同时,诘将棋的有趣之处也不得不引起民间人士的关注。在元禄时代,这种有趣的罐装将棋不可能不流行给爱好游兴的江户市民。
元禄时期开始,除了家元棋士以外的诘将棋书开始出版,其中收录了很多民间人士的作品。列举这些民间人士的棋书如下。
1青木善兵卫篇《近来象戏记大全》(元禄8年。1695年)
2无住仙良篇《作物象戏大矢数》(元禄10年。1697年)
3宥镜篇(堆定)《诸国象戏作物集》(元禄13年。1700年)
4周咏篇《象戏洗涤作物集》(宝永3年。1706年)
5赤县敦宿泊篇《大象戏纲目》(宝永4年。1707年)
6伊野边看斋《象戏手段草》(享保9年。1724年)
7宥镜篇《大象戏勇士鉴》(享保14年。1729年)
8添田宗太夫《象戏秘曲集》(宝历2年。1752年)
上面除了《手段草》和《秘曲集》以外的作品,大部分都是草创期风格的朴素作品,虽然不足为取,但小原大介、望月勘解由(仙阁)、田代市左卫门等留下了几部娱乐性的洒落作品,作为这个时代的作品值得关注。
比宗印的《勇略》晚24年,享保9年(1724年)出版的伊野边看斋的《象戏手段草》,和宗印的作品一样,是一部自由豁达的优秀作品集,包括《飞先飞步》、《银锯》、《四桂诘》、《四银诘》等值得关注的作品。第一次完成了玉的盘面81格全位置配置的事也值得记录。即使在看过《象棋无双》和《象棋图巧》之后对质朴的印象是不得已的,但《手段草》是在《无双》和《图巧》之前诞生的,历史意义必须高度评价。
增田宗太夫的《象戏秘曲集》是一本只收集了《烘出曲诘》的作品集,在时代上是值得珍惜的存在。另外,本书于宝历2年(1752年)发行,比三代宗看的《象棋无双》晚,但从添田的活跃时期开始,推测创作是在《无双》之前,在元禄—享保年间进行的。
就这样,诘将棋随着时代的发展而发展,诞生了自由创作型的诘将棋,创作了技巧性、游戏性的作品,迎来了三代宗看和看护的杰作诞生的背景是安静而成熟的。
以下为知识来源
黄金期の前夜(元禄-享保時代)
時代とともに成長してきた家元棋士の詰将棋は、五世名人二代伊藤宗印(生年不明―1723)の登場により飛躍的な展開をする。
五代宗桂までの作品は、一部遊戯的作品があるにせよ、大部分が重厚な実戦型作品だったのに対し、宗印の詰将棋は実戦型とは縁もゆかりもない「創作型」の作品である。彼の作品は二百題あり、元禄十三年(1700年)献上された『象戯図式』(俗称『将棋勇略』)は、全題、玉を中段(4―8段目)に配置した創作型詰将棋で、詰手順も捨駒の粋を尽くした軽妙なものである。自陣玉(1―3段玉)が全くないのは古今を通じて異類の作品集である。これだけの手腕がある作者なので、自陣玉の作品集が別にあったのではないかとも想像される。もう一つの作品集『将棋精妙』は、『不成百番』の別名があるように、どの作品にも不成の手筋が入った作品集で、巻末の二題は玉方の角不成と飛不成の伏線で終局不詰となる「逃れ図式」となっている。なお、この『将棋精妙』は作者生存中は出版されず、書稿のままで伝えられたらしく、幕末の安政五年(1858年)になって初めて出版されている。
この宗印の二つの作品集は、当時までの詰将棋の理念から飛躍した奇抜なもので、宗印の並々ならぬ手腕と感覚を見ることができる。ところで、このように伝統を脱却し、当時としては奇嬌とさえ言える作風に宗印を走らせた動機は何だったのであろうか。
先に述べた通り、歴代将棋家元の献上図式は、彼等の面目にかけても先覚の業跡を凌ぐべく、絶えず工夫改良が行なわれている。ところで重厚を極めた五代宗桂の『象戯手鑑』の存在は、次代の宗印にとって相当な脅威だったと思われる。五代宗桂と同じ次元に立っては『象戯手鑑』を上廻る作品を作ることは不可能に近い。この苦悩と判断が、宗印をして実戦型への訣別、奇嬌な新作風への転換を余儀なくさせたのではないかと考えられる。しかしこの自由な新作風への転換が次代の傑作『将棋無双』や『将棋図巧』を生むキッカケになっていることを考えると、このことは実に大きな意義あることと言わねばならない。
ところで、二代宗印の作品は実は代作ではないか、という疑惑があるので触れておきたい。それは、『将棋勇略』は宗印自身の創作でなく、曲詰集『象戯秘曲集』の作者・添田宗太夫七段が代作したのではないか、というのである。その根拠は、『将棋勇略』が献上されて6年後、宝永3年(1706年)に出版された洗濯周詠編『象戯洗濯作物集』の中に、『将棋勇略』の作品が2題、添田宗太夫作として掲載されているからである。時代や作風や前後の事情から考えると、添田の代作は考えられぬことではない。添田が『勇略』の真の作者とすると、詰将棋の歴史は大切な所でちょっと変ってくることになるが、ともに重要な人物なので言及しておく次第である。
宗印を頂点とする家元棋士の詰将棋は、このようにめざましく発達したが、同時に、詰将棋の面白さは、民間人の関心を呼び起さずにはおかなかった。世は元禄時代、遊興好きの江戸市民にこの面白い詰将棋が流行らぬはずがなかった。
元禄のころから家元棋士以外の詰将棋書が出版され始め、これに多くの民間人の作品が収録されている。これら民間人の棋書を列挙すると次のようである。
1 青木善兵衛編『近来象戯記大全』(元禄8年。1695年)
2 无住僊良編『作物象戯大矢数』(元禄10年。1697年)
3 宥鏡編(堆定)『諸国象戯作物集』(元禄13年。1700年)
4 周詠編『象戯洗濯作物集』(寶永3年。1706年)
5 赤縣敦菴編『象戯綱目』(寶永4年。1707年)
6 伊野辺看斎『象戯手段草』(享保9年。1724年)
7 宥鏡編『象戯勇士鑑』(享保14年。1729年)
8 添田宗太夫『象戯秘曲集』(宝暦2年。1752年)
上のうち『手段草』と『秘曲集』以外の作品は、ほとんどが草創期風の素朴な作品で、取るに足りないものであるが、小原大介、望月勘解由(仙閣)、田代市左衛門などは、遊興的な洒落た作品を何題か残しており、この時代の作品としては注目に値する。
宗印の『勇略』におくれること24年、享保9年(1724年)に出版された伊野辺看斎の『象戯手段草』は、宗印の作品と同様、自由闊達なすぐれた感覚の作品集で、「飛先飛歩」「銀鋸」「四桂詰」「四銀詰」など注目に値する作品を含んでいる。玉の盤面81格全位置配置をはじめて達成したことも記録に値する。『将棋無双』や『将棋図巧』を見た後では地味な印象はやむを得ないとしても、『手段草』は『無双』や『図巧』に先がけて誕生したもので、歴史的意義は高く評価せねばならない。
添田宗太夫の『象戯秘曲集』は、「あぶり出し曲詰」のみを集めた曲詰集で、時代的に見て珍重すべき存在である。なお、本書の刊行は宝暦2年(1752年)で、三代宗看の『将棋無双』より遅いが、添田の活躍期間から、創作は『無双』に先がけて、元禄―享保年間に行なわれていたものと推定される。
こうして、詰将棋は時代の進行とともに発達して、自由な創作型詰将棋が誕生し、技巧的・遊戯的作品が創作されるようになり、三代宗看と看寿の傑作誕生を迎える背景は静かに熟していたのである。