古诘将棋6 诘将棋衰退期

阅读前须知:知识来源:诘将棋博物馆。
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由于三代宗看·看寿的出现达到了顶峰的诘将棋,不久将迎来衰退期。那个契机是废除了献上诘将棋的传统。

获得九世名人之位的大桥宗英(1756-1809)说,“诘将棋十分发达。今后让我们日常下的将棋更加发达吧”,于是他自己放弃了对诘将棋的奉献。他说的话是一种逃避的口气,也是一种见识,是因为他意识到自己比不上三代宗看·看寿。他没有完成过诘将棋的创作,被人问到理由时,回答说:“如果是诘将棋的话,桑原君关系不是也可以吗?”虽然不知道真伪,但却是有名的传说。他以后的将棋家元也效仿他,持续高呼“蔑视诘将棋”,因而诘将棋急速衰退。

桑原君仲是这个衰退期的第一人。桑原是九代宗桂的弟子(四段),《象棋奇正图》(宽政4年(1792年)刊。天保7年(1836年)作为《将棋玉图》复刻)和《将棋极妙》(嘉永2年)。1849年出版),他创作了共计二百番的诘将棋,不顾家元的无力,一个人撑起了一个时代。他下棋的精妙作品很多,特别是在装盘的创作上下了功夫,但没有像三代宗看·看寿那样的独创性和规模那么大。

桑原似乎是职业和业余爱好者之间的中间存在,但他以后的诘将棋离开了棋手,转移到了棋力较低的业余爱好者手中。作为幕府末期到明治大正时代的主要作品集,和中氏《象戏童玩集》(文政11年。1828年),河村古仙《象棋贯珠》(明治10年。1877年),松本朋雅翁的《象棋万象》(明治38年。1905年)、高桥与三郎《象棋真田》(大正14年)。1925年)等,但内容都不高。

即使进入明治大正时代,专业棋手也不顾将棋的发展。因为棋手必须靠将棋生活,而不能靠将棋的报酬来维持生活。从那时开始,作为一种新的倾向,在报纸杂志等媒体上刊登了诘将棋,但是以专业棋手的名义发表的作品,大部分都是以启蒙为主体的极低程度的作品,或者抄袭了古作,缺乏可看的东西。

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詰将棋衰退期(幕末-明治大正時代)

 三代宗看・看寿の出現で絶頂に達した詰将棋は、やがて衰退期を迎える。そのキッカケは詰将棋献上の廃止である。

 九世名人に就位した大橋宗英(1756―1809)は、「詰将棋は充分発達した。これからは指将棋を発達させよう」と唱え、みずから詰将棋の献上を止めてしまった。彼の言葉は看寿・宗看に及ばぬことを悟ったための逃げ口上でもあり、一つの見識でもあった。詰将棋を一題も作らなかった彼は、人に理由を聞かれて「詰将棋なら桑原君仲にでもできるではないか」と答えたという。真偽は判らないが有名な伝説である。彼以後の将棋家元も、彼にならって「詰将棋蔑視」を唱え続けたので、詰将棋は急速に衰退した。

 桑原君仲はこの衰退期における第一人者である。桑原は九代宗桂の弟子(四段)で、『象棋奇正図』(寛政4年(1792年)刊。天保7年(1836年)『将棋玉図』として復刻)と『将棋極妙』(嘉永2年。1849年刊)の合計二百番の詰将棋を創作して、家元の無気力を尻目にひとり気を吐いた。彼の詰将棋は軽妙な作品が多く、特に曲詰の創作に工夫が見られるが、看寿・宗看のような独創性とスケールの大きさはない。

 桑原は専門家とアマチュアの中間的存在だったらしいが、彼以後の詰将棋は棋士の手を離れ、比較的棋カの低いアマチュア愛好家の手に移っていった。幕末から明治大正時代にかけての主な作品集としては、和中氏『象戯童翫集』(文政11年。1828年)、河村古僊『将棋貫珠』(明治10年。1877年)、松本朋雅翁『将棋万象』(明治38年。1905年)、高橋与三郎『将棋真田』(大正14年。1925年)等があるが、いずれも内容は程度の高いものではない。

 明治大正時代に入っても専門棋士は詰将棋を顧みなかった。棋士は将棋で生活をせねばならず、詰将棋の報酬では食えなかったからである。このころから新しい傾向として、新聞雑誌などのマスコミに詰将棋が掲載されるようになったが、専門棋士の名で発表された作品は、ほとんどが啓蒙を主体としたごく程度の低い作品か、または古作を盗用したもので、見るべきものは乏しい。

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aucki6144
天锻将棋创始人

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